沖縄に見る民主主義のジレンマ

民主主義という制度はシンプルに多数決であり、少数派は少なからず不利益を被る。もちろんなるべく少数派が納得する結論が出るまで話しあうわけだけど、結局は「最大多数の最大幸福」に落ち着くのが実情だ。

 

その最大多数の最大幸福を国家単位で考えると、「国益」になるだろう。国家レベルの意思決定は国益に資するように決定される。

民主主義の要である(といわれる)新聞のなかでも、全国に読者を持ついわゆる全国紙は、ほとんどの場合国益に資するように書かれていると思う。一方、沖縄の新聞社は当然、沖縄に住んでいる人たちに寄り添った論調になる。しかしそこには確かに、国益という名のもとに負担を強いられている人たちがいる。彼らが「なぜ私たちだけ」と不満をあげるのは当然だ。

外交では、国家対国家がお互いの国益を主張しながら、ときには首相同士が握手をしたり、対立して紛争に発展したりする。しかし、その国と国の国境には当然、普通に生活している人びとがいる。彼らを無視して、彼らのはるか頭上で外交が進んでいいのだろうか。

 

そんな全くシンプルな民主主義のジレンマは、普段首都圏で生活している僕にはなかなか感じられない。

しかし僕が沖縄に来て最初にお世話になったタクシーの運転手は、那覇空港から宿までの道のりを走りながら、「米軍はここの那覇軍港を、浦添の沖に移設しようとしているが、とんでもない話だ。現職の浦添市長は移設に反対したから当選した。私たちは海の自然と生きものを守りたい」と語った。基地問題ではデモなど激しく抗議をするイメージばかりがマスコミに取り上げられるが、年老いたタクシー運転手の訥々とした語り口からは、むしろ切実さが感じられた。

 

しかし実際、沖縄県民も、基地反対の動きで一枚岩になっているわけではない。

基地のない離島はもちろん、本島のなかでも基地のない南部と基地の多い中部では大きな壁があるという。普天間基地野嵩ゲートで行われるデモでも、ほとんどの人が本島中部だという話だ。

2ちゃんねるなどの掲示板では、自身が沖縄出身だというユーザーが、沖縄県の基地反対の動きを左翼的だと批判するコメントがよく見られるが、これも当然だと言えるだろう。

そもそも、生まれてから基地と共に育ってきたのだ。基地があって当たり前、大して迷惑ではないというのも、決して嘘ではないと思う。

 

しかし、それは「基地がない時代」を知らないからだけではないだろうか。

「知らない」ということはときに、本来は受け入れがたい現実を、なんの疑いもなく受け入れてしまう可能性がある。北朝鮮の政府が国民に、北朝鮮以外の国の様子をひた隠しにして統制をはかるように。

いま、沖縄の言論は難しい立ち位置を求められていると思う。ある記者の方が、「本当は毎日一面を基地問題で飾りたくない。地域に根ざした幸せなニュースを載せたい。でも、なにか動きがある限り、それを一面にせざるを得ないんだ」と話してくれた。

沖縄の言論は偏っているわけではない。身近に起きている問題を批判するためには、偏らざるを得ないのだ。

自分たちが全国紙と違う論調であることは、地方紙の彼らが一番よくわかっている。しかしそうせざるを得ないことに対して、歯がゆくも思っているのかもしれない。彼らの少数派に寄り添う気持ちや、政府の傍若無人な振る舞いに対する鋭い批判は、沖縄問題以外にも向けられる。

 

僕らは知る必要がある。

沖縄の抱える問題を。従軍慰安婦問題の真実を。なかったかもしれない南京大虐殺を。

誰かが感じている怒りに対し、僕らはもう少し理解を示そうと努力しなければならない。誰もイデオロギーや先入観から逃れられない。あの国もそうだし、きっと僕らだってそうだ。

僕たちは戦争を知らない世代だ。だからこそ、悲惨な歴史を知り、現状を冷静に見つめなおすことができる。

僕らの世代が国を動かす立場になったとき、日本がいまよりも素晴らしい国であることを願う。