「明日、ママがいない」をフィクションだと切り捨てることの危険性

この前、竹田圭吾さん(@KeigoTakeda)がRTしたtweetにとても納得した。

 

このtweetで言及されている記事は、昨年末に「泣いてる子どもを電車に乗せるのは迷惑か?」という議論が巻き起こったことを受けて書かれたものだ。平たく言えば「子どもなんだから周りが我慢しろ」派と「泣く子どもを乗せる親が悪い」派で議論が二分した。
しかし、この記事は、「そもそもそんな議論をすることが理解できない」というメタ的な視点から論を展開している。つまり、子どもが泣くことを許すか許さないか議論されるような社会がそもそもおかしいのであり、「赤ちゃんにきびしい国」だというわけである。

なるほど確かにそうだな、と記事を読んだ当時は思った。しかし上記のtweetを読んでハッとさせられた。
現に、「泣いてる子どもがうるさくて迷惑」と言っている人が一定数以上いるのだ。その事実を無視した前提から始まるような巨視的な議論は、ただ一段上から人を見下ろすだけで実はなにも解決できないのではないか。「なぜ泣いてる子どもが許せないのか」というところまで踏み込むべきだろう。

 

ぼくは、「明日、ママがいない」について巻き起こっている一部の議論も同じではないかと思う。

「明日、ママがいない」は、児童擁護施設に預けられている子どもたちを主人公に、「親子の愛情とはなにか」をテーマにしたドラマだ。しかし、児童擁護施設での生活の描写などが過激であるために、児童福祉関係者から抗議の声があがり、スポンサーが次々と降板するなどして、一時期放送中止が噂されるまでに問題が発展した。
一方、多くのブロガー、お笑い芸人などが、ドラマに込められた深いテーマに理解を示し、表面上の演出に過剰に反応して抗議する人たちの「浅はかさ」を批判している。

ぼくもこのドラマを見てみたが、内容からは児童福祉施設を非難するような意図は感じられない。子どもたちに厳しく接する三上博扮する魔王も、「子どもたちを幸せにさせたい」という気持ちが見え隠れする。確かに少し高度なメディアリテラシーが必要とされる内容だが、「親子愛とはなにか」を追求しようとする製作側の真摯な姿勢がわかる。

しかし、ぼくはこのドラマへの抗議に対する、「フィクションなのに真に受けるんじゃない」「過剰な演出くらい許せ」という批判は、浅はかだと思う。

このドラマを見て、実際に児童福祉の人たちは傷ついたのだ。「私たちはこんな劣悪な環境で子どもたちを育てているわけではない」と憤らずにはいられない人もいるだろう。もし大人はそう思わなくても、あのドラマを見た親なき子どもたちはどうだろう。「このドラマはフィクションです」というテロップだけで割り切れるだろうか。

その人たちの声を「フィクションだから」という理由で切り捨てるのは容易い。それは一方的に「強くなれ」と言っているようなものだ。そんな議論に意味はない。例え結論が「フィクションだから多少過剰な演出は許される」というものだとしても、批判している人たちの心情や声にも耳を傾け、議論しなければならないと思う。

 

最後に、「明日、ママがいない」問題について素晴らしい記事を投稿し続けている法政大学教授で元テレビ局ディレクターの水島宏明さんの言葉を引用したい。

一番守らねばならない「施設の子どもたち」への「想像力」を失い、彼らを傷つけているのだとしたら、それはどんなに良い放送をしても意味がない。 ―出典:HUFFPOST

大事なのは、どんなときでも「誰かが傷ついているかもしれない」と思いを巡らす想像力だ。